ワンピースが好きな理由。
ゴールデンウィークを過ぎたくらいの時季から、私はよくワンピースを着ます。
夏になると週の半分以上をワンピースで過ごすほど。
恐らく、私はワンピースという形状の服が、とても好きなのだと思います。
そうそう、『暮しの手帖』編集部にいたときには「ワンピースの女」という連載の担当をしていたこともありました。
ワンピースに縁があると言えるかもしれません。
では、どうしてワンピースが好きなのか。
考えてみると、その理由は幼少期にある、という結論に達しました。
私は、よくワンピースを着ている少女だったからです。
母は洋裁学校を出て間もなく、働く経験がないまま
父と結婚。
兄を産みました。
ところが兄は、生後まもなく亡くなります。
そして、その後しばらくして、私は生まれたのです。
母は兄に注げなかった愛情、かけられなかった手間を私に集中。
幼い頃の私は、母の作った服しか着たことがありませんでした。
まわりの女の子に人気のキャラクターがプリントされたトップスに憧れながら、母が作ってくれたワンピースを着ていたのです。
白い丸襟の、紺地に白い水玉模様のワンピース。
真っ白のレース地で、パフスリーブのワンピース。
いま思えば、なんともおしゃれで、贅沢なことだったのかわかります。
でも当時は、人気のキャラクターがプリントされた服を着る周囲の子がどれほどうらやましかったことか……。
でもワンピースたちに罪はありません。
クラシカルで、品のある母が作るワンピースを嫌いになることはありませんでした。
年頃になって、本当は兄に注がれるべき愛情、かけられる手間を押しつけられているように感じて、母との関係を冷えさせていった私ですが、ワンピースへの思いは変わったことがありませんでした。
たとえ、それら作ってくれた母を疎ましく思うことはあったとしても……。
そして、いまでも私はワンピース好き。
今日もまた、お気に入りたちに袖を通すのです。
LITTLE PRESS003『本の部屋のファンタジア』
イラストレーターの平出紗英子さんと人形作家のイシイリョウコさんが、
“本棚から選んだ私たちの好きな本”
をテーマに描いた小さな、小さな画集です。
登場する本は『不思議の国のアリス』『ひなぎく』『ヒエロニムス・ボッシュ』『あわて床屋』『銀河鉄道の夜』の5冊。
これらの作品のワンシーンが、お二人の手によって、まったく新しい世界観として再構築されています。
『鏡の国のアリス』のなかでアリスが迷い込むのは鏡の裏側の世界です。
もし本棚にも裏側の世界があったとしたら?
そこに収められている本の種類によって、その裏側で待ち受けている世界ががらりと変わるとしたら?
このリトルプレスを眺めていると、どんどん妄想力が暴走していきます。
思いのままに妄想力を暴走させて、その世界にどっぷりはまる楽しさにバンサイ!
BOOK018 『建てて、いい?』 中島たいこ
居場所、って難しい。
実家では、お仕事の関係で共に暮らしていた母や父、弟と生活のサイクルが6時間くらいずれていて、顔を合わせることもあまりなく、玄関の出入りや洗面台で立てる音などにかなり気を使う日々を送っていた時期がありました。
自分の実家のはずなのに、なんだか居候をしている間借り人みたいな感覚に襲われたものです。
そして恋人と暮らしていたときはマンションの借主の名義は同居人で、書類上、私は「同居人」なので、これまた自分の住まいと堂々と胸を張れない立場になっていました。
自分だけの居場所が欲しい、と思うことがかなり多い家に住まう経験してきたと言えるでしょう。
居場所問題は、家だけに限った話ではありません。
会社での居場所も、そのひとつ。
仕事の好調、不調の波は誰にでもあるもので、好調の波に乗っているときは、職場における自分の居場所なんてものを意識することはあまりありません。
でも不調の波にはまってしまったときは
「私、この場所にいていいの?」
なんてことを考えたくなるもの。
恋愛だって、同じです。
「彼の隣が私の居場所」
と何の疑いもなく思えることもあれば
「もしかして、もうここには私の居場所はないのかも?」
と不安にかられることも……。
どんな場面においても、“居場所”問題は大問題なのです
。
自分の居場所を求め、家を建てることを決意する30代半ばの独身女性が主人公の本書。
表題作を含め2編の物語が収録されています。
自分の居場所を作りたいだけなのに、周囲からたくさんの反発にあったり、居場所が本当に必要なのか迷ったり、その道のりは紆余曲折ばかりです。
その紆余曲折っぷりに共感しながらも
「でも、居場所って、そういう問題じゃないんだな、きっと」
と思い至りました。
自分名義の家があっても、仕事が好調でも、居場所を作ってくれる恋人がいたとしても、自分の居場所を求める気持ちがなくなることは、きっとありません。
なぜなら、“居場所”というやっかいな代物は、外部からもたらされるものではないから。
自分で自分の心の中につくったものが、本当に自分だけの居場所になるはずだから。
BOOK017 『さようなら窓』 東 直子
男女の間で、“気づいてしまうこと”は時に命取りになります。
それは決して、浮気とか、嘘とかそういった類のものだけではありません。
“好き”だと思い込んでいただけで、実は“好き”じゃない、と気づいてしまうなんて、致命的な“気づき”も存在します。
そして、本作に登場するきいちゃんとゆうちゃんも、気づいてしまうのです。
致命的な事実に。
この2人にとっての致命的な“気づき”になったのは
「一緒にいると自分がダメになる」
「一緒にいると、自分のせいで相手をダメになってしまう」
というもの。
大好きなのに、一緒にいたいのに。
一緒にいるとダメになる。
こんな悲しい話があるでしょうか。
きいちゃんとゆうちゃんは、その“気づき”によって離れることを決心するのだけれど、私はきっと、いや、間違いなく、たとえ気づいてしまったとしても、見なかったことにして、蓋をして、大好きな人の隣に居つづけてしまいそう。
早く気づけは傷は深くならずに済むのかもしれないけれど、気づいているのに見ない振りをすると、傷はどんどん深くなっていくものです。
気づいてしまったけれど、見なかったことにしたい。
傷がどんどん深くなっていくのを自覚しながら、それでも一緒にいたい欲求に抗うことができない、そんな感覚こそが、恋を恋たらしめる、愛を愛たらしめているのだと思うから。
東さんの小説を読むと、どういうわけか東さんの短歌集がよみたくなります。
小説の東直子さん。
短歌の東直子さん。
それぞれが、私に投げかけてくるものと向き合っていると、言葉の在り様についてあれこれ考えさせられます。
そんな自分の中で起きる相乗効果も楽しみのひとつです。
どうして、それほどまでに性的な描写が必要なの?
今から2ヵ月とちょっと前2月24日に発売になった村上春樹さん著『騎士団長殺し』の上巻を、ようやく読み終わりました。
買ったのは発売日の翌日だったので、2ヶ月以上かかったことになるでしょうか。
どうしてこれほどまでに時間がかかったのか。
仕事に追われて、本を読む時間がとれなかったのも、確かです。
でも、それだけではないような気がします。
思うに、腑に落ちないことが多すぎたからです。
その最たるものが、どうしてこれほどまでに性的な描写が必要なのかしら? というもの。
私が編集&執筆に携わっている某女性誌で、読者世代の大半はセックスレスに悩むか、夫から迫られるセックスが苦痛に感じているかのどちらかです。
でも、村上春樹さんの『騎士団長殺し』上巻にはたくさんのセックスシーンが出てきます。
なんとまぁ、村上春樹さんと同世代の女性たちが抱えている現実と解離のあることよ。
物語の進行上必要なものなのかしら。
どんなメッセージを込めて、これだけのセックス描写を盛り込んでいるのかしら?
そんな疑問がむくむくと沸き上がりながらページを捲っているので、まったく物語が前に進みません。
だから、こんなに時間がかかってしまったのです。
みなさん、どう思うのでしょう。
『騎士団長殺し』は官能小説ではありません。
これほどまでに性的な描写が必要なのかどうか。
物語の進行に必要な性的描写とはどういうものなのか。
下巻を前に、私の疑問は大きくなるばかり。
さて、残る下巻、どうしましょう。
本棚有名人に、なれるかもしれない。
1ヵ月ほど前のこと、こんなニュースを見つけました。
要約すると……
「じぶん書店」で会員登録をして、講談社が展開する約3万2000点の電子書籍からタイトルを選択。
そのタイトルの推薦コメントを入力するだけで、自分がセレクトした本たちを集めた電子書店を無料で開設できるというサービスです。
自分の書店で電子書籍を見て(経由して)誰かがその作品を買った場合には、その価格の10%がアフィリエイトとしてコインで提供されます。
というものです。
ブクログや読書メーターなど、読み終わった本、ほしい本、積読本を記録するためのサイトはありましたが、「じぶん書店」とこれらの決定的な違いは“記録目的”ではなく、自分の読書体験を編集して第三者にプレゼンをすることを可能にしたという点だと思います。
最近では個性的な本屋さんがどんどん生まれ、店主が綴る本屋さんの本というジャンルも確立しつつあります。
でも、これはリアル店舗を営んでいる人のお話です。
この自分書店を上手に使えば、実店舗がなくても、本好きの目をひく自分だけのお店が作れてしまう。
そして、そのセレクト次第では、本屋さんが本業ではないけれど“本棚有名人”という人が生まれるかもしれないわけです。
私を読書好きに育ててくれたのは、両親と住んでいた街の商店街にあった小さな本屋さんのおばちゃまでした。
だから、どんな街にも本屋さんが存在することの大切さを身をもって知っています。
書店の減少が叫ばれて久しい昨今、私ができるだけネット書店ではなく、本屋さんに足を運んで(もしくは、本屋さんが運営しているWEBショップで)本を買い求めているのには、そんな幼い頃の経験が大きく影響しているのです。
でも、本との出会いは実店舗の本屋さん以外であってもいいと思います。
1年間で刊行される新刊書籍の出版点数が8万冊以上。
本屋さんですべての新刊書店と出会うことは、不可能です。
だからこそ、個々の読書体験を持ちよって、新たな本と出合う機会を作ってくれる「じぶん書店」のようなサービスは、どんどん広がってほしいと思います。
できるだけ多くの人に、自分が手がけた本を届けたい。
そう思うのが、編集者という生き物です。
私の手がけた本や執筆した記事も、こういったサービスを通じてたくさんの人に届き、その心を少しでも揺さぶりますように……。
BOOK016 『ほめことばの事典』 榛谷泰明編
総ページ数、524ページ。
じっくりと読み進めるためのものじゃなく、気が向いたらパラパラとページをめくって、気になるところを読んでみる事典です。
その内容はタイトル通り、古今東西のさまざまな文学作品から“誰かをほめている”フレーズを集めたもの。
40歳に近づくお年頃になると、なかなか人は褒めてくれなくなるし、誰かを褒めるなんてちょっと照れくさくなってくるものです。
最後に誰かを素直に、素直な言葉で褒めたのはいつだったかしら? と思いをめぐらしてみても、思い出すことができません。
おそらく、かなり昔のことなのでしょう。
私だけじゃなく、おそらく日本人は、人を褒めるという行為があまり得意ではない生き物なのではないでしょうか。
それを証明するかのように、本書に出てくる数々の“ほめことば”たちも、ほめるという行為に苦心しているのか、たくさんの言葉を積み上げて、相手のささやかな美点について表現しようと努力する様が伝わってくるものばかり。
本来なら
「すごいわね」
「かわいい」
「きれい」
「優しいのね」
「とっても魅力的!」
「あなたのそういうところ尊敬するわ」
なんていう、簡潔でシンプルな言葉でも人を褒めることができるのに、そこはさすが、古今東西の文学作品からの引用だけあって、なんとも文学的な“ほめことば”が登場します。
これだけほめことばがたくさん掲載されているのだから、「自分に自信を失って、だれかにほめてほしい」時にはうってつけ! 読んだだけで、自分が褒められた気分を味わえると思う方もいるかもしれません。
ところが、ほめられたい時にはこの本を開いてみようという気にはならないから
とっても不思議。
どちらかというと、誰かの言葉や行動に尊敬したり、感動したりしたのだけれど、うまくそれを伝えられなかったことに後悔しながら、今度こそ素直に“ほめことば”を届けよう、そう誓うために、私はページを開くことのほうが多いように思います。
心を動かされた瞬間を言葉に置き換える習慣を大切に……。