2017年9月21日のお買い上げ本。
今日は朝から、いいえ、もっと前から、今日本屋さんに行くと決めていました。
手帳にも、仕事のTo doタスクよりも大きな字で「本屋さん」と書いておきました。
目当ては、お買い上げ本の1冊『早稲田文学増刊 女性号』です。
作家の川上未映子さんが責任編集で、その川上さんが執筆陣に丁寧な依頼文をお書きになったことなどが、Twitterで話題になっていました。
でも、これが買おうと思った理由ではありません。
まるごと1冊「女性」という存在に焦点を当てるという画期的な内容だからです。
私は別に、フェミニストではありません。
女だから、男だからという尺度自体が無意味だと思っているし、人間という生き物として互いの違いを認め合って(それは役割分担とかいうことではなく)、敬意を払っていければいいなとは思っていますが。
私は女として生まれて、女として生きています。
それってどういうことなのだろうと考えることは、とても多いです。
それは、私が女性の生き方や暮らしに関する雑誌や企画でお仕事をしていることが大きく影響しているのでしょう。
女であることがいいとか、悪いとかではなく、女として生きることときちんと向き合っていきたいと思ったときに、きっとこの本にはさまざまな示唆やきっかけに溢れているはず。
そう思って、お買い上げでした。
そしてもう1冊は『毛のない生活』です。
著者の山口ミルコさんは幻冬舎の編集者さんでした。
実は私、就職活動ですべての出版社に落ちたのち、同級生がみんな就職して、社会人をやっている時期に、幻冬舎で編集アシスタントをしていたことがあります。
コピーをとったり、校閲さんがゲラに書き込んだ鉛筆に消しゴムをかけたり、デザイナーさんのところにお使いとして初校やカバーの色校を届けたり……。
そんなことをしていました。
そのとき、幻冬舎でエース編集者としてバリバリ働いていたのが山口ミルコさんでした。
だから、この本が発売されたとき、私はすごくびっくりしました。
「あのミルコさんが!」
と衝撃を受けて、本を手に取ることができませんでした。
時間が経って、女性の生き方をテーマにする仕事がメインになった今、読むべきなのではないか、そう思いました。
ただの編集アシスタントのアルバイトだった私は、山口ミルコさんを「知っている」とは言えるような立場ではありません。
でも、面識がある程度だったとしても、ご縁があった人が人生の大きな転機を経験した話に触れることは、きっと私のなにかを動かしてくれるはずです。
ということで、今日のお買い上げ本はこの2冊でした。
Words012 男ってやつは……。
私が見たところによると、男の人の八割くらいは、いくつになっても自分のまわりにいる女の人たちが自分に多かれ少なかれ気があると思っているみたいだった。
「彼女について」よしもとばななより
笑い出すような場面に出てくる文章ではないのですが、これを読んだ瞬間、おもわず吹き出してしまいました。
たしかに「女性の中にも勘違いをしてしまう人」というのがいるが、私の統計では男の人のほうが「勘違い率」は格段に高い気がします。
友情と好意をぐっちゃにしてしまう人も。
しかも、すっごく長い付き合いの友人関係とかお世話になっている上司とか、恋人まではいかないが近しい距離にいる男性は、ちょっとした一言や、突っ込みのつもりで肩を叩いた手といったものに、意味を見出す生き物なのなのでしょう。
そしてどういうわけか、男性は自信家な人が多いような気もします。
自分はモテるから大丈夫という妙な自信。
だから、女性に優しくないし、女性の気持ちを理解しようとすることもない人、意外とまわりにいるのです。
本当にモテる男なんて、ほんの一握りだっていうのに。
そういう意味で、女性のほうが謙虚なのかもしれません。
まぁ、周りにどんな人がいるかによって統計データは大きく変わるものなので、私の周囲限定の話、ということにしておきましょう。
ブログに書くこと、今昔。
私がつくった最初のブログは、yahooブログでした。
就職活動に失敗して、なりたかった出版社は全滅、どうにもならない閉塞感にどっぷりとはまっていた時期なので、今から20年弱前のことだと記憶しています。
もちろんTwitterやFacebookがない時代のことです。
当時多くの人がブログに書いていたのは、ささやかな日常や趣味のこと。
いまほど書くことに慣れている人が多くなかったし、携帯で撮影できる写真にも限界がありました。
ブログを通じて、共通の趣味や興味のある事柄についてやり取りすることにも、おっかなびっくり。
もちろんすべてとは言わないけれど、大半のブログがふんわりしていて、ルールも秩序も守られていたような気がします。
そして、「自分のまわりのささやかな世界」を書く人がほとんどだった印象です。
時が経って、TwitterやFacebookが発信の主流となり、私もその流れに乗ってブログを書くことをやめました。
でもしばらくすると、Twitterの140文字という制限から解き放たれて書きたいこと、記録しておきたいことも存在することに改めて気づきます。
そして3年ぶりくらいに、ブログの世界に戻ってきた次第です。
戻ってきた私が書いているブログは、はじめてのブログと同じように、私のささやかな日常と、感じた、読んだ、聞いた、触れた、味わった、知ったこと、そしてそれらによって呼び起された感情についてです。
そして、読まずにはいられない本の話。
ところがです、ほかの方が書いてらっしゃるブログを見て、びっくりしました。
今どき、私みたいな話を書いているブログは、ほとんど見当たりません。
多くが
時事ネタ。
役に立つ情報
ビジネスにつながる話題。
です。
ブログを通じて、なにかを成し遂げたい。
著名な書き手になりたい。
お金儲けにつながればいい。
そんな思いが、たくさんあふれて、詰まっているように感じられます。
あらまぁ、ちょっと見ないうちに、すっかり変っちゃって……。
小さいころに一度だけ会ったことがある親戚の子どもに、思春期くらいになって再会したときのような台詞が口をついて出たほどでした。
だからといって、私は書くことを変えません。
私にとって「ブログで書く」ことの意味は前述のとおり、私のささやかな日常と、感じた、読んだ、聞いた、触れた、味わった、知ったこと、そしてそれらによって呼び起された感情と本の話です。
これって、その時その時の自分の記録がこのブログだということ。
時事的なことにも、ビジネスでうまくいくコツも、役に立つ最新情報も、自己啓発的な話も、私の記録にはなりませんもの。
多くのブログみたいに、私の書くものは役には立たないし、お金儲けにもなりません。
他人が読んでおもしろいと感じるものでもないので、アクセスはとっても少ないです。
でもそれでいいのです。
編集&ライターの仕事をしていると、話を聞かせてくれた人(取材対象者)の気持ちがどうやったら読者により伝わるか、どんなふう書けば取材対象者や取材テーマに興味をもってもらえるか、どうすれば読者がおもしろく読んでくれるかなどなど、自分以外の誰かのことばかり考えながら文章を書いています。
だからこそ、誰かのことを考えずに書ける場所が、私には必要なのかもしれません。
ブログの潮流、今昔。
私のブログの、今昔。
どんなにまわりが変わっても、変われない、変わりたくないこともあるのです。
BOOK021『田村はまだか』 朝倉かすみ
無条件で、未来がキラキラ輝いたものになるだろうと信じられた時期。
まわりで起きる様々な出来事が理不尽に思えて、その理不尽さと闘えていた時期。
いまの自分を、無条件で“幸せ”だと思えた時期。
人生にはさまざまな「時期」があり、、リズムもあります。
たとえどんな「時期」であったとしては、人は良いことも悪いこともあるけれど、今と一生懸命に向き合うことが大切」と思うものです。
そして、そんな日々の中、ときにふと立ち止まって考えます。
未来なんて、そうそう簡単にキラキラ輝くものではないし、理不尽と闘ってみたところで自分一人でどうにかできるものでもなさそう。
自分は幸せだと思っていたけれど、それは思いこもうとしていただけ。
思い描いていた幸せはこんなものじゃなかったはずだ。
そんな考えが頭を占拠することも起こりえます。
そしていつしか、人は未来を期待することも理不尽と闘うことも、そして幸せを強く求めることもしなくなっていって――。
人生におけるさまざまな「時期」において、こうした“停滞”の色を帯びた時間も当然生まれます。
物語は、小学校の同窓会の3次会が舞台です。
深夜のバーで、同級生の「田村」がやってくるのを待つ男女五人も、そんな停滞期の真っただ中。
田村との思い出を語り合いながら、彼らの「今」が浮き彫りになっていきます。
そして、田村とともに過ごした小学生の自分いはあった希望のようなものを、田村の登場によって再び取り戻せるのではないかという期待とともに、彼らの思い出話は熱を帯びていくのです。
登場人物たちと一緒に田村の登場を待ちわびながら、私自身、これまでの自分とこれからの自分に思いを馳せました。
たとえどんな「停滞」を生きていたとしても、諦めにとらわれそうになったとしても、すべての希望を手ばなすことができないのも、人間らしさです。
もがいたからこそ見つかる、新たな希望もあるでしょう。
今の自分とあの頃の自分を比較しすぎても仕方ない。
田村と過ごした時間があったからこそ、今の彼らがいる。
昔の私は、いまの私の一部なのだから。。
Words011 まとわりつくものたち。
仕方のないことって、どうしてこう、人生にまとわりついてくるんだろう、とため息をつきそうになった。
『さようなら窓』 東直子 より引用
そう、たしかに、仕方のないことはまとわりついてきます。
困ったな、煩わしいなと思っていても、まとわりつく。
仕方がないと思いながら、仕方がないってすっぱりと割り切ることができなくて、まとわりつかれて、うんざりしてしまうものです。
でも考えてみたら、人生なんて仕方がないものによって8割がた作られているのではないでしょうか。
まとわりつかれてうんざりしながら、進み続けていくってことが、生きるということ。
いつの間にか、自力で、もしくは他力のおかげで振り払われた「仕方のないもの」が経験として自分のなかに積み重なっていかないと、成長も進歩もできないのも事実です。
通り過ぎていった「仕方のないものたち」の結晶が私だとしたら、いま抱えている「仕方のないもの」も愛おしく思えてこないでしょうか。
さようなら。こんにちは。
このところ、いろいろなことを心機一転させるような機会があり、あれやこれやに思いを馳せていました。
そして見つけた答えを忘れないように、ここに記しておくことにします。
実は、いまから5年くらい前の私はプライベートもお仕事も、経済状態も混沌を極めていて、ぐちゃぐちゃな状態でした。
そこからなんとか這い上がり、不思議なご縁やありがたいご縁が重なって、いまの私がいます。
プライベートもお仕事も経済状態も、その頃に比べれば、だいぶ落ち着いてきました。
ところが、人という生き物は不思議なもので、落ち着いてくると欲が出ます。
もっとこんな仕事をしたい。
もっとこんな素敵なものが欲しい……。
そして、欲と一緒に拒否感も抱くようになるのです。
最初は「あんなに大変な状態だったのだから、ありがたい」と感謝をもって受け取っていたものでも、いつのまにか「これくらいのことは、我慢しなくちゃ」という感情を抱くようになりました。
そして更に時間が経って、いまでは「どうしても、これはイヤ」とまで思うようになってしまうのですから、私も薄情な人間です。
たしかに薄情なのでしょう。
でも少し見方を変えてみたら、あの混沌とした時期を経て、いま私はゼロになったということなのではないかと思うのです。
編集者になり、ただがむしゃらにいろいろなものを積み上げデコボコしていた私が、混沌にどっぷり嵌り七転八倒するなかで、経験も混沌も全部ぐちゃぐちゃにして、まっさらな私になったとでもいうのでしょうか。
地ならしができた感じです。
仕事を拡げなきゃ、深めなきゃ、とあれこれ作戦を練ったり、企画をあれこれ考えたり、「混沌」と「経験」を均すための日々にさようなら。
そして、地ならしを終え、また種をまいたり、咲かせたり、手と足と頭と心を使って動き出す日々よ、こんにちは。
リトルプレス&zine蒐集をやめます宣言。
訳あって、先週は自宅にある本の整理をしていました。
あまりの量に自分でも驚きながら、私は
「今後、リトルプレスおよびzine関係は蒐集しない」
と決意するに至りました。
我が家には、恐らく人よりほんの少しだけ多めに積読本があります。
積読本ですから、もちろん読むことができていません。
そんな本と雑誌が150冊ほどあるのです。
そしてこれに加え、かれこれ10年以上集めているリトルプレスとzineがあるわけです。
こちらは、見ただけで冊数を数える気力も失せるほどの分量。
積読本と大量のリトルプレス&zine、素人の分際でよくこれだけ蒐集したものです。
本や雑誌を読めていないのですから、もちろん、リトルプレス&zineもそのn9割がたが未読です。
そしてはたと思ったのです。
本にくらべ、作られた時期の潮流や、作った人の瞬間の思いなどが詰め込まれているケースが多いリトルプレス&zine。
積んでしまっていては、“旬”を逃してしまっているのではないかしら? と。
(もちろん本のなかにも、その時々のはやり廃りや今この瞬間について綴られたものはあります。でも、私の読書傾向として、その手の本に手を出すことがあまりないのです)
だからこその「蒐集終了宣言」なのでした。
ものを集めることに取り憑かれたことのある方なら、きっとわかってくださると思うのですが、蒐集癖のある人にとって、それをやめるということはとても難しいこと。
かなりのエネルギーがいります。
ただ今回、本から派生して他のものもあれこれ整理していて思ったのですが、生きるということはモノが増えていくことでもあります。
知らず知らずのうちに、増えているもの。
でも、そのなかに本当に必要なもの、手元においておきたいと心から思うものがどれだけあるのかを考えてみたら、意外と少ないのかもしれません。
ちょっと前までよく聞いた“ミニマリスト”を目指すわけでも、ものをなるべく買わずに「捨てる生活」を送るというわけでもありません。
本はこれからも、たんまり買いつづけます。
リトルプレス&zineをきちんと味わうことができないのでは、リトルプレス&zineの作り手さんに失礼ですもの。
産みの苦しみならぬ、集めずにいる苦しみ。
はたして、どうなることでしょう。
※いま手元にあるリトルプレス&zineの紹介はつづけます