BOOK019 『薬指の標本』 小川洋子
小川洋子というと、あの“博士の愛した数式”を思いうかべる人が多いと思います。
私は彼女の書く幻想小説がとっても好きです。
愛にまつわる、どうしようもなさを描いた短篇2作品が収録された本書も、現実にはありえない、ちょっと不思議な設定の物語に仕上がっています。
表題作でもある“薬指の標本”は愛に囚われはじめるときに起きる、不信と抵抗、そして諦観をみごとに描いた作品。
1つの愛を前にあまりの居心地の良さに身を任せていたら、ちょっとした疑問が胸にわいてきてしまい、不信とらわれ、ふらふらと惑ってしまうことはよくあるものです。
不信にさいなまれたことで生じた溝や亀裂が原因で、その愛を失ってしまう人もいるでしょうし、その不信を解消することに躍起になる人もいることでしょう。
不信にまけて、諦めて、自ら愛を手放す場合すらあるでしょう。同じ諦めでも、不信に抗う行為自体を諦めたら、惑わされることなく、その愛にだけ熱情を注ぐエネルギーに変わるのかもしれません。
愛に囚われた人間は、あらゆる可能性と感情を前に、翻弄され続けるしかないんだな、という当たり前のことを思い知らされる物語です。
ネタばれになってしまうので書かないけれど、2篇目も人が愛を前にして遭遇してしまうだろう熱情について書かれた秀作。
日本語が美しくて、文章も上手なので、スラスラと読めてしまうので、注意してください。愛にまつわる驚くべき瞬間や、すさまじい切り口を見逃してしまうから。
見逃さないように、息をひそめて、眼をこらして、読んでください。